水曜日の12時は1週間の半分です。

仕事を通して得た気づき、読書記録などを。

最愛の同僚の退職が少しも悲しくないことについて

最愛の同僚が退職することを知らされた。退職の1週間前に。
彼女は、新人だった私が一番辛かった時期ちょうどその時に、何も言葉を発さず、「すべて理解している」という大きな優しい目をしながら背中をポンと叩いてくれた人である。いつもいつも。
彼女もまた私のようにハンデがあり、ある程度の限界を抱えながら、高い山を一緒に目指していた仲間である。独身がほとんどを占める我が部署で、私にとってはある種の光であった彼女の存在。
しかし、私の心はそのニュースを聞いた直後から悲しみなどなく、今後の彼女の動向と、彼女がいなくなることでの部署の変化、自分自身の状況の変化が楽しみになっていた。大切な人に毎日会えるということは、私にとってさほど重要でないのだと気付いた重要な瞬間である。彼女は退職後起業する。私は彼女が、より彼女らしく、最大限に彼女の力を発揮出来ることを、彼女のためにも一番に望んでいる。
いなくなることが悲しくないからと言って、愛していないこととは、全くべつの話なのである。きっと誰にとってもそうなはずである。
ありがとう。あなたの笑顔と強さにどれだけ支えられたかは語り尽くせない。会えなくなってもあなたの存在は私の中で慈しんでいきます。今後の飛躍を密かに強く願っています。

今日の喜び

自分の動かしたプロジェクトの成功例を他所にも紹介することで他所の動きにも反映させ、他所でも成功させた、ということがあった。


人の心を動かして、0から1を生み出すということ。このダイナミズムを私はずっと、求めていたし、これのずっとそばにありたい。いつまでも愛し続けたい。

 

そしてこれにふさわしい自分でありたい、と思うのである。そのためには決して油断はできないし、努力を続けなければならないと、強く思う。

誰かと出会わなければよかったと、心底思うことはありますか。

ある人と出会い、話をする機会があった。これはその時、感じたことを文章化したものである。

誰かと話をするときに、純粋に自分が話したいことを話すことは、私にはほぼない。

私にとって、会話とは、一緒にいることになった人と過ごす時間を埋めるために、この人が関心を持って聞けることは何か、この人が話したいことは何かと探求してその穴を埋めることである。いうなれば作業に近いものである。
頭の中で必ずフィルタをかけて、適切な話題を適切なタイミングで投入することに意識を集中している。
何かの見返りを得るために良い関係を築きたい場合や、自分もその人に対してより深くコミットしたい場合は、相手の関心の輪と、自分の関心の輪の共通する部分を模索しながら探すこともある。

しかし、自分の考え方や、誰かと共有したい自分の価値観を、相手に対して純粋に話せることはほとんどない。私にとっては、家族でさえもその対象ではない。

しかし、ある人と出会い、彼には、ごく自然に何のフィルタも通していない自分の素の価値観を、何の打算もなく話すことができた。どうしてかは全然わからないし、そこに関しては何の分析もしていないのだけど。


誰かに、純粋に自分の話したいことを聞いてもらえ、しかと受け入れてもらえた経験は一見、私のようなものの人生にはとても良い印象的な経験だと解釈しうる。しかし、私は彼に受け入れてもらったせいで、それまで自分がいかに人々に自分を開いてこなかったか、あるいは、いかに孤独であったかを、ありありと、しかも鮮やかに認識するきっかけになった。今感じているのはとんでもない孤独である。

ここから、私はまた変わることができるだろう。彼のような人を身の回りに増やすことだって可能である。
しかし、今思っているのは、孤独を感じるのはしんどいということである。彼には出会うべきではなかったという思いに安易に流れてしまいそうでもある。

奥さんの出産予定日に出社するかという問い

少しリラックスしたい時に、いつもランチを共にとる同僚がいる。今日も彼とランチをとった。

彼の奥さんは出産を控えている。初産ということもあり、同僚は何かとそわそわしている。そして出産経験のある私にいろいろな質問をくれたりする。そういうの、自分の体験を追体験できる感じもあり、すごく微笑ましいなあと思いつつ、わりあい熱心に教えたりしている。

彼は今、出産予定日に出社するかということについてとても悩んでいる。

初産の場合、実際の出産日は予定日より遅れがちであり、休んでしまったら、本当の出産日に休みにくくなるということを、まず第一にわたしは主張した。出産予定日にはいつも通り出社することを勧めたのである。その回答の妥当性については、わたしにしては珍しく全然悩みもせず、当たり前であり最善の選択だろうと考えていた。(会社による彼の職務上の評価が必ずしも高くないことも考慮した上で出した答えでもあった)

彼のそれに対する回答はこうである。
出産というのは一生に何回もないことであり、万が一その日に生まれてしまったら、その日に休まなかったこと、そばについていてあげなかったということが、きっと奥さんの心に残ることだろう。出産するかもしれない日を一人で心細く過ごさせるのは、不本意であり、自分としてはそばにいてあげたい、と。

私は、彼の言葉によって目が醒める思いがした。職務上の評価と彼の奥さんへの心遣いは絶対天秤にかけてはならないものだと気づく。人への優しさや気遣いは大きな大きなかけがえのないものであり、否が応でもそういうものを天秤にかけなければならないこの環境の不自由さ、不自然さを改めて自覚する。
彼と話しているといつも、どちらかというと集団の利に意識を向けがちな自分の視点がグワーッと変わり、一気に見えない部分が見えるようになる思いがするのである。

私はどちらかというと、彼の笑顔と人懐こさだけに魅力を感じて、共に時間を過ごすことを選んでいた気がするけれども、自分には無い視点をくれる大切な友人としてこれからも彼の存在を大切にしていこうと、改めて思ったそんな1日。

Different people, different point of view

お昼を一緒にとる人に困る。いや、実際一人で過ごしたいのだ。

ランチタイムを一人、カフェで過ごすのが一ばんの楽しみなのだから。しかし、共通フロアで会い、今日一緒にお昼どうですかと問われれば「いやです」なんて言えない。そして、そうして一緒になる人に、会社の愚痴や改善すべきところを一方的に話されることに、なんというか残念な気持ちなのである。
仕事をしていると、理不尽なことはいっぱいある。笑顔なんて到底キープできないし、怯えたり、嫌になったり、自尊心が傷つけられたり、そんなことばっかりだけど、でも基本的には、あえてそれを共有することはないと思っている。

今日は、あるチームメンバーとランチした。彼は、会社のために、こうしてください、とかこういうことになっているからあなたが合わせてください、とか、利益を出すためにこうしてください、と会社側から言われ続けるの違和感を感じると話してくれた。彼曰く「そういうのは全く相互的ではない」と。そのことに対して、彼が思うのは、では会社は自分に何をしてくれるのか、ということなのだそうである。

翻って私は、どうしてもそういう視点が持てない。会社の利益向上に努めるのは、会社員の当然の務めだし、会社が個人のために何をしてくれるのか、なんて考えたこともないのだ。彼のこの発想を聞いて、社会人としてそこそこうまくいっている自分は、もしかしたら、会社からとても都合よく搾取される人材たりうる可能性を思い、少しゾッとした。そしてざわざわとした不安。彼はきっとここを去るだろう。会社の目標にコミットし、文句を言わずについていく人のみが生き残る体質の企業は、人材の多様性という観点から大きな損失をしているかもしれないとも考えた。
よい企業とは何か。彼からそんな命題、考えるきっかけを与えてもらった気がする。
愚痴を言う人々を避け続けて生活している気がするけど、なんだか今日は彼と話せてよかった。

苦手だった彼女

直属の上司がわりと苦手だった。
言葉の選び方が直接的で、思っていることをそのまま口に出す傾向があるところや表情を取り繕わないところ、そしてそのことが、ときにとても威圧的に感じさせることを苦手に感じていたのだ。
実際、なかなか珍しいタイプだと思う。

大抵の女性同士の会話って、相手がどう思っているのかにとても敏感で、相手をおもんばかってなんぼみたいなところがあるとわたしは思っている。共感、共感、共感を重ねて、中身は深まらなくとも不快ではない、むしろそれに心地よさすら感じるというのが私の思う女性同士のそれである。
しかし、わたしの上司は、彼女らのような人ではない。とてもストレートなのである。例えば、誰かが彼女の期待に添わない行動をしたら、「なんでそんなことをしたのか」と責めるような目で見て、詰問する。悪気がないのだとわかるまでに3か月の時を要した。
相手のことをおもんばかり、相手のプライドを傷つけないように気をくばる。そしてそうすることによってできれば、相手を自分の思うように動かそうとすることは、いわゆるコミュニケーション能力と呼ばれるものだろう。しかし、それは一方でとても打算的な行為だと思う。
今では、まっすぐで、正直で、それがゆえに時に不器用とさえ思える上司に対して単純に親しみを抱いている
私の職場ではプライベートのことを話したり、深い話をするわけではない。しかしみなが毎日本気で働いている職場だとは胸を張って言えると思う。そんな職場では、それぞれの個性、人間性を嫌という程知ることができるものだと感じている。なんだかそれがとても面白いことに思える毎日。

少年のジョギング

少し前に、読んだ話。ソースは完全に忘れたが、Webか新聞。幼少時に体がよわかった少年が親のすすめで毎朝ジョギングをするようになり、文字どおり雨の日も風の日もジョギングを続け、何年か経過後、よわかった体は強くなり、少年は陸上の選手になったという、実話を読んだのである。ある意味平凡な話なのかもしれないが、わたしの心に強く残ったのは、少年が雨の日さえも走ったという事実である。

わたしはジョギングを日課としてはいるが、雨の日は走れないと思い込んでいた。だから雨の日には、走れないことにフラストレーションを感じつつ、ジョギングをお休みしていた。だから冒頭の少年の話がとても印象的だった。あ、雨の日も走っていいんや。思い込みからの解放の予感。

今日、まさに雨の中走ってきて、少々の雨なら、全然不快でないし、むしろ人も少なくて走りやすいということがわかった。

新聞、本、Web記事から自分の中に大量に入ってくるストーリー。自分の中の何かにひっかかったものに、ん?と立ち止まり影響を受ける私たち。これがあるから私は、自分の中に他者のストーリーを取り込むこと、何かの中毒症状のように止められないのである。